2014年06月10日
そしてさらに
とても素敵なものをいただいた。
リモージュ焼きの陶磁器。
味わい深いアンティークである。
わっと思った。如新香港
なんでわたしの好みがわかったんだろう?
もしわたしが骨董市で見つけたら、いの一番に買っていただろう。
3年前、初めて単独でパリに行ったとき、
何箇所かの骨董市で、数回にわたり、4つの品々を買った。
本の骨董市では、かわいい70年ぐらい前の、レース模様のポストカードも手に入れた。
若い女性が、当時、お友達に送った葉書だった。
ぼってり厚みのある、スペイン風の、黄色い地模様に赤い取っ手のティーカップ。
ソーサーなしで、4個。
金属で作られた、ショッピングバッグを持った女性の立体オブジェ。
金属のガラクタをうまく利用して作られた、オールドクラッシックカーの額面オブジェ。
「リモージュ焼き」とどこにも描かれていない、無名の、やたら高かった「アラジンのランプ」みたいな形の陶磁器。
(あれは、ぼられた感がある・・・)
ひとつひとつの値段の格差は、大きかった。如新nuskin產品
骨董市はクレジットカードでは払えないので、近くに設置されているATMでキャッシングした。
重量と値段はまったく比例していない。
カップはひとつ200円ぐらいだったが、4つもあるので、けっこう重かった。
2つのオブジェはどう見てもスーツケースに入れると壊れるし、国際宅急便で送るにも、箱の手配や梱包が微妙だし。
で、手荷物で持ち帰った。
そしてさらに、アンティークではないが、
帰国前々日に、パリ最古のデパートで見かけた、ゴージャスな花嫁姿のバービー人形もとても欲しかったのだが、
手荷物で持てる範囲のことを考えると断念せざるを得なかった。
ひとりパリ二回目、昨年は、買い物の内容が、ぐっと現実的になった。
たまたま通りかかった教会のチャリティバザーで見つけた、スプリングコート(フランス既製品)。
帰りの飛行機の中で、頭上の機内手荷物入れに入れていたら、
上から、めちゃくちゃ重いバッゲージを乗せられ、もののみごとにぺっちゃんこ。
下に何があるか、ちょっとは考えて、荷物を入れて欲しい・・・。
しかしながら、シワには耐えるということが実証され、かえって重宝している。
旅行中も、帰国後も、ばりばり現役で役立っている。
(とはいうものの、はっきり言って、完全に流行おくれ)如新香港
同じバザーで見つけた、一枚でよかったのだが、6枚でも同じ値段にするからと勧められ、6枚買った、
直径30センチのゴールドの大皿(おそらくプラスチック製)。
出歩き先で買ったので、アパルトマンに持ち帰るのに、最初はどおってことなかったが、徐々に重くなった。
日本へは宅急便にしようと手配したら、サイズ的に入らず、しかたなく買った時のバザーの紙袋のまま、手荷物で持ち帰った。
6枚ものゴールドの大皿、自宅で晩餐会でもするつもりか?
我が家のキッチンにある最下段の食器棚の中で、
毎晩、田舎ねずみと、町ねずみたちが寄り集まって、晩餐会が行われている?
今回、いただいたリモージュ焼きの陶磁器も含め、
わたしのアタマでは、いくつもの舞踏会やらパーティやら、宮中晩餐会や、園遊会が行われている。
映像、音楽まで、ついでにコラボして。
残念ながら、わたしは出てこないんだけど。
まあ、見るだけでも楽しいシーンの数々。(見るといっても、脳内スクリーン)
わたしは、ぜったいに一人遊びができる、と断言できる。
ただ、現実的に、いろいろ無くしたり、もの忘れしたりするので、発言に気をつけないと、
ほんとうにアタマ、大丈夫?と心配されそうだ。
「現実と空想の区別がついていませんね」と、脳神経科の先生に、しぶ~い顔をして診断されそうだ。
・・・
旅先で買ったグッズたちも、雄弁に語りかけてくれる。
晩年の孤独なわたしの時間を癒してくれそうだ。
(今は、ベビーに、これはね・・・、あれはね・・・、と説明しているが、
ベビーはだんだん、見たり聞いたり説明はどうでもよくなって、ベビーを脱却し、
触る、引っ張る、投げつける、引きずる、踏む、壊す、の方向に進んで行っている)
この壊し屋ベビーと、うっとりお目目のわたしとの共存共栄は、もはやありえなく、
ま逆方向にベクトルは向いている。
優雅な空間など、とんでもなく、如新香港
掛け軸、置物、観賞用植物、花、オブジェ、その他すべて、
一切合財の装飾系備品は、撤去。
お気に入りの和紙張りの、床の間サイドの開口部も、
段差を利用し、ギャングの足踏み昇降台と化し、和紙の継ぎ目が、めくれかかっている。
べりりと剥がれる日も近そうだ。
そこが剥がれると、他の床の間全体の壁も、同じ和紙で施工されているので、
全部、取替えということになる・・・・・。
あきらめが、かんじんか。
いやはや、まだあきらめきれない。
孫守のあと、リフォームすればいい、と、人は簡単に言うが。
わたしは、モノや設えに、愛着とこだわりを持っているのだ。
しかしながら、それは果たせないとなると、
自宅は、まったく何も置かない、たんなる生活空間にして、
(あるいは、ぐちゃぐちゃ生活感あふれるカオス空間)
好みのものを美術館や博物館、建造物で、たっぷり見るという方法もありだ。
美の感覚を満たしてくれる空間に、じっと身を置き、アタマとこころに美をチャージするか。
少なくとも、フランクフルトにある素晴らしいゲーテ(詩人)邸を見学した時のような、
最初から最後まで駆け足、というような見方は非常に残念極まりない。
一生で、もう二度と訪れる機会はないと思われる、貴重な当時のままの邸宅なのに、
これまたショップでダッシュ購入したポストカードを見て、あとで思い出す、なんて、わびしすぎる。
・・・
モノと、こころ。わたし、モノ・フェチなんだろうか。
モノだけではない。
癒される時間、空間。
そこには、人々の生きてきた原風景もある。
そういうものが、わたしの人生の宝物となり、これからのわたしを末永く支えてくれると思う。
リモージュ焼きの陶磁器。
味わい深いアンティークである。
わっと思った。如新香港
なんでわたしの好みがわかったんだろう?
もしわたしが骨董市で見つけたら、いの一番に買っていただろう。
3年前、初めて単独でパリに行ったとき、
何箇所かの骨董市で、数回にわたり、4つの品々を買った。
本の骨董市では、かわいい70年ぐらい前の、レース模様のポストカードも手に入れた。
若い女性が、当時、お友達に送った葉書だった。
ぼってり厚みのある、スペイン風の、黄色い地模様に赤い取っ手のティーカップ。
ソーサーなしで、4個。
金属で作られた、ショッピングバッグを持った女性の立体オブジェ。
金属のガラクタをうまく利用して作られた、オールドクラッシックカーの額面オブジェ。
「リモージュ焼き」とどこにも描かれていない、無名の、やたら高かった「アラジンのランプ」みたいな形の陶磁器。
(あれは、ぼられた感がある・・・)
ひとつひとつの値段の格差は、大きかった。如新nuskin產品
骨董市はクレジットカードでは払えないので、近くに設置されているATMでキャッシングした。
重量と値段はまったく比例していない。
カップはひとつ200円ぐらいだったが、4つもあるので、けっこう重かった。
2つのオブジェはどう見てもスーツケースに入れると壊れるし、国際宅急便で送るにも、箱の手配や梱包が微妙だし。
で、手荷物で持ち帰った。
そしてさらに、アンティークではないが、
帰国前々日に、パリ最古のデパートで見かけた、ゴージャスな花嫁姿のバービー人形もとても欲しかったのだが、
手荷物で持てる範囲のことを考えると断念せざるを得なかった。
ひとりパリ二回目、昨年は、買い物の内容が、ぐっと現実的になった。
たまたま通りかかった教会のチャリティバザーで見つけた、スプリングコート(フランス既製品)。
帰りの飛行機の中で、頭上の機内手荷物入れに入れていたら、
上から、めちゃくちゃ重いバッゲージを乗せられ、もののみごとにぺっちゃんこ。
下に何があるか、ちょっとは考えて、荷物を入れて欲しい・・・。
しかしながら、シワには耐えるということが実証され、かえって重宝している。
旅行中も、帰国後も、ばりばり現役で役立っている。
(とはいうものの、はっきり言って、完全に流行おくれ)如新香港
同じバザーで見つけた、一枚でよかったのだが、6枚でも同じ値段にするからと勧められ、6枚買った、
直径30センチのゴールドの大皿(おそらくプラスチック製)。
出歩き先で買ったので、アパルトマンに持ち帰るのに、最初はどおってことなかったが、徐々に重くなった。
日本へは宅急便にしようと手配したら、サイズ的に入らず、しかたなく買った時のバザーの紙袋のまま、手荷物で持ち帰った。
6枚ものゴールドの大皿、自宅で晩餐会でもするつもりか?
我が家のキッチンにある最下段の食器棚の中で、
毎晩、田舎ねずみと、町ねずみたちが寄り集まって、晩餐会が行われている?
今回、いただいたリモージュ焼きの陶磁器も含め、
わたしのアタマでは、いくつもの舞踏会やらパーティやら、宮中晩餐会や、園遊会が行われている。
映像、音楽まで、ついでにコラボして。
残念ながら、わたしは出てこないんだけど。
まあ、見るだけでも楽しいシーンの数々。(見るといっても、脳内スクリーン)
わたしは、ぜったいに一人遊びができる、と断言できる。
ただ、現実的に、いろいろ無くしたり、もの忘れしたりするので、発言に気をつけないと、
ほんとうにアタマ、大丈夫?と心配されそうだ。
「現実と空想の区別がついていませんね」と、脳神経科の先生に、しぶ~い顔をして診断されそうだ。
・・・
旅先で買ったグッズたちも、雄弁に語りかけてくれる。
晩年の孤独なわたしの時間を癒してくれそうだ。
(今は、ベビーに、これはね・・・、あれはね・・・、と説明しているが、
ベビーはだんだん、見たり聞いたり説明はどうでもよくなって、ベビーを脱却し、
触る、引っ張る、投げつける、引きずる、踏む、壊す、の方向に進んで行っている)
この壊し屋ベビーと、うっとりお目目のわたしとの共存共栄は、もはやありえなく、
ま逆方向にベクトルは向いている。
優雅な空間など、とんでもなく、如新香港
掛け軸、置物、観賞用植物、花、オブジェ、その他すべて、
一切合財の装飾系備品は、撤去。
お気に入りの和紙張りの、床の間サイドの開口部も、
段差を利用し、ギャングの足踏み昇降台と化し、和紙の継ぎ目が、めくれかかっている。
べりりと剥がれる日も近そうだ。
そこが剥がれると、他の床の間全体の壁も、同じ和紙で施工されているので、
全部、取替えということになる・・・・・。
あきらめが、かんじんか。
いやはや、まだあきらめきれない。
孫守のあと、リフォームすればいい、と、人は簡単に言うが。
わたしは、モノや設えに、愛着とこだわりを持っているのだ。
しかしながら、それは果たせないとなると、
自宅は、まったく何も置かない、たんなる生活空間にして、
(あるいは、ぐちゃぐちゃ生活感あふれるカオス空間)
好みのものを美術館や博物館、建造物で、たっぷり見るという方法もありだ。
美の感覚を満たしてくれる空間に、じっと身を置き、アタマとこころに美をチャージするか。
少なくとも、フランクフルトにある素晴らしいゲーテ(詩人)邸を見学した時のような、
最初から最後まで駆け足、というような見方は非常に残念極まりない。
一生で、もう二度と訪れる機会はないと思われる、貴重な当時のままの邸宅なのに、
これまたショップでダッシュ購入したポストカードを見て、あとで思い出す、なんて、わびしすぎる。
・・・
モノと、こころ。わたし、モノ・フェチなんだろうか。
モノだけではない。
癒される時間、空間。
そこには、人々の生きてきた原風景もある。
そういうものが、わたしの人生の宝物となり、これからのわたしを末永く支えてくれると思う。