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2014年04月30日

世界1位は

ニューヨークに、このたび『猫カフェ』がオープンしたという。
『猫カフェ』と言えば康泰領隊
室内に猫が自由に過ごせる空間を作り、
そういった猫とのふれあいを提供するカフェのこと。
台湾が発祥ともいわれるが、日本でも、全国レベルで広がっている。
このネコ、実際に飼われている数で言えば、日本が世界第2位だが、
世界1位は、ダントツでアメリカ。

ペットとして飼われている動物としては、犬が一番多いが、
2番目はネコという事になるが、性質はまるで逆。

犬が飼い主である人間にあわせた行動をとるが、
ネコは、まるで気まぐれで人間の行動にあわせて過ごそうという気はない。
それがネコ好きにはたまらないものらしい同珍王賜豪
内田百閒の随筆に『ノラや』というのがある。
ノラ猫が迷い込んできて次第に住み着くようになる。
迷いネコであるところからノラと呼んで、
不本意にも可愛くなってしまっていた。
昭和32年の3月に、ノラが家を出たまま帰ってこなくなった。
電車や車にはねられていないだろうかと気を揉んだり、
行きそうな場所を訪ね回ったりと、
百閒の悲しい心の動きや様子などが書かれている。
「♪出逢った頃は こんな日が、来るとは思わずにいた~」
というところだろうか香港如新

そういった悲しい別れなどを考えると、
『猫カフェ』で、猫と戯れながら、
ひとときを過ごす喜びを味わうのがいいのかも知れない。

『猫カフェ』で飼われているのなら醫藥網
少なくとも居なくなったと、大騒ぎをする事だけはない。  


Posted by hetinese at 11:01Comments(0)記事康泰

2014年04月15日

してケアして寝る

▲私の手じゃありません。フリー素材です。

ピアノで無理をして、ひどい腱鞘炎になって以来、ずっと弱いままだ。手を壊す前を10としたら、壊した以降は3か4くらいだ。あまり無理ができない手になってしまった。

昔手に矢を受けてしまってな……

※ネタ元が分からない人はスルーで同珍王賜豪

腱鞘炎自体はとっくに治ったし、フォームも改善した。それでも手は元に戻らない。一言で言うと、弱くなった。

何ヶ月も徹底的に安静にした結果…

腱鞘炎になったらひたすら安静が必要でとにかく負荷をかけてはいけないと聞く。医者にも言われた。私は一刻も早く治そうとして、「安静にする」を徹底して守った。ペンより重いものを持たなかったしあらゆる動作を制限した。自作ギプスをしてほぼ完全に固定してしまって、使えないようにもした。体力自体も温存して手の回復に回したかったから疲れる運動なども一切控えた。できるかぎり横になって寝ていたくらいだ。

その結果だと思っているのだが、私の手はすっかり「弱く」なってしまった。


腱鞘炎 – 弱々しい手をなんとかしたい

「弱い」というのは、具体的には、無理をするとすぐ痛む、ダーメージがなかなか回復しない、酷い冷え性のように芯が痛む、などなど。負荷に耐えることのできない、力ない、か弱く、か細いという状態中醫保健養生

この痛みは腱鞘炎の症状というわけではない。腱鞘炎は治っている。少なくとも、何度か経験した腱鞘炎の症状とくらべて、これは腱鞘炎そのものの症状ではないと私は考えている。この状態を「弱い」と私は表現する。

何時間でも練習できる強靭な手をもう一度取り戻したい。そのためには手を「強く」する必要がある。

負荷に耐えられないほど弱々しい手をどうやって鍛えるか

だけど、負荷に耐えられないほど弱いものを、どうやって鍛えればよいのか。矛盾しているではないか。これは難しい問題だ。

さんざん悩んできてようやく自分なりの答えを得た。最近そんな気になった。長年の研究と経験と勘で、ある1つのことが大事なのだと信じるようになった。「血の巡り」だ。

大事なことなのでもう一回言おうかな。

血の巡り。

そうなんだよ。血行なんだよー康泰自由行。最初に言ってくれよーもうー。

血行が回復と強化へと転ずるための鍵

血行を良くするための食事、運動、生活習慣がある。姿勢も大事だ。

血行が良くなると、手が強くなる。ダメージが蓄積せず回復するようになる。そして、弱った手を強化するためのフィジカルなトレーニングにも耐えられる耐久力がつく。

血行というものは手の話に限ったことではなく、あらゆる身体の問題に関係するんだと思う。血の巡りを良くすれば万病に効く的な。どんな怪我にも効く的な。

大腿筋から臀部の圧迫、背中の圧迫が手先の血行に及ぼす影響は大きい。だから30分練習したら立ち上がって血行を回復させるオリジナルの体操をしたり。

そうそう、毛細血管って使わないと減っていくらしい。そして組織に血は回らなくなる。そして、毛細血管は増やせるらしい。鍛えることもできるらしい。

そんなことを勉強しつつ、今後のピアノ生活に活かしていこうと思うnu skin 如新

この辺の自分の中で構築された経験則と理論は、はっきり言って宗教みたいなもんで、そう信じている、そう感じている、というだけの話だけど。自分にとっては今はこれが一番確かなものであって。確かに効果を得られるものであって。

今日も忘れずに体操してケアして寝る。  


Posted by hetinese at 18:22Comments(0)康泰

2014年04月14日

幼児用の電子ピアノ

Windows XP サポート終了に伴い、重い腰を上げた。
大手家電店に行ったが、不評の「8」しかないので、
その店では買うことをやめ、そこの家電店のポイントを溜めるのをあきらめた。
別の小さな、ちょっとマニアックな店で「7」を購入したが、少し、規格品にプラスアルファのオーダー変更をしたので、
入手は、あと3週間ほどかかる施政樂

とは言うものの・・・わたしの役目は、カードで支払う時のみ。
アドバイスをしてもらった、パソコン・ソムリエの婿に、お任せ、丸投げ。

大手家電店で、わたしが最も興味を抱いたのは・・・
幼児用の電子ピアノ。
いろんなリズムやトーン、音階、演奏楽器の選択、編曲、組み合わせ、
特定の曲の自動演奏、あれこれ、いろいろいろできる。
鮮やかな原色の小さなピアノに、ちょこんと赤い椅子が、ちっちゃくて、またカワイイ。
あれは、子どもではなく、大人が欲しいのではないかと思う。
子ども(孫)をダシに親(じじばば)が購入したい魅力がいっぱい。

親の趣味で、電車のオモチャに凝る場合もある。
いろんな私鉄やJRの電車を、複雑な切り替え線路や踏み切りなど、バリエーションを揃えたりする。
お人形さんや、おママゴトも、自分が遊びたい目線で選んだりする。
こんなオモチャが欲しい!!と、当事者の子どもではなく、大の大人である、自分が思ったりする。
実際、子どもは、違う趣味だったり、興味だったりするのだが、最初は親の押し付けとなる。


うちの場合、ふつうのピアノは、家にあり、孫には時々、適当にアットランダムに、ばんばん触れさせている。
リズムや音階など、まったく無視して、たんなる鳴り物として扱っている。
これが、ド、これがレ、とか、まったく教えていない。
右側に寄ると高い音が続き、左側は、低い音。
指一本だとひとつの音だが、両手で、ばんばんと叩くと、重なる音、濁った音。
正統なピアノであるが、使用用途は、たんなるオモチャとしてのピアノである。

わたしは、ピアノに関しては、ぜんぜんうるさくないので、なんだっていいのだ。
自分が嫌いなのに、ピアノを延々と幼稚園児の時から小学6年まで習わされていたので、もう、うんざり。
(子どもにも、幼少の頃、無理やり習わせて、全員ピアノ嫌いにさせてしまった)
でも、今は、そのおかげで、少しぐらいはクラシック楽曲を下手ながらに弾くことができる。
古典音楽に触れる機会を与えてくれた親に、感謝。
ちーちーぱっぱの幼稚園の先生ぐらいの程度なら、即興で子どもの曲は弾ける施政樂
これまた、感謝。

でも、わたしが欲しいのは、あの電子ピアノ。
わたしが子どもの頃も、電子オルガンや、エレクトーンも世の中には出回っていて、
昨日、家電店で見た、オモチャピアノのような機能はついていた。
義母の家にも、エレクトーンがあったが、いつの日からか姿を消した。
誰かに、もらってもらったのだろうか?
(アップライトのピアノは、まだあるが、もらってもらう予定はない)

家電店のあの電子ピアノのオモチャは、売り場で自由に弾かせてもらえるのだが、
どこをどう探しても、値段が表示されていなかった。
いったい、いくらなんだろう?
高いのだろうか?
気にさせて、値段を表示しない、あれは手か?

見かけは、オモチャっぽいが、内容は優れていると感じた。
しかし・・・サル並のやんちゃっぷりで、
電気コードを引っ張ったり、わけもわからず、めちゃくちゃな扱いをして壊されたりすると、嫌なので、
大事に大事に扱い、あまり遊ばせないかも知れない。
あるいは、幼い子どもにはあまり興味を持ってもらえなくて、ほったらかしになるかも。
またもや、自分のコレクションを増やすだけになりかねない。

・・・

ちょっと外に出かけてみると、刺激になる。
欲しいなんて思いもしないようなものに食指が動いたり、注目したり。
なにも今時、今さら目新しくもなんともないものが、ちょっとした味付けを変えることによって、新鮮に映る。
目線が変ると、同じものでも、生きてくる孔聖堂中學中六

モノだけに囚われないと思う。
脳に刺激、感性に刺激を与えると、
いつもながらの味気のないものや、飽き飽きしているものに対しても、
新しい風を感じることができる。

これをお料理に活かせば、家族は泣いて喜ぶのだろうが、
哀しいかな、わたしは料理は・・・イマイチ、イマニ。

掃除、整理、整頓は大の苦手、嫌いなくせに、美しいものや、美術品が好き。
この大いなる矛盾。まったくの矛盾である。
料理は出来ない(ヘタ)けれど、グルメであるのと同じことか。
そういう、世の亭主は、じつにやりにくい。
調理したものを投げつけてやりたい心境になる。
が、自分も同じ穴のムジナなので、あまり言うと、自分の首を絞める。

自分は出来ないくせに理想が高い。有言不実行。
出来ないなら、偉そうに言うことなかれ。
出来てこそ、声に出すべき。
出来るけれど、それも言わないで、ひっそり実行するのが、理想中の理想だ。
が、理想は遠い。

目指す「不言実行」を、いつも呪文のように唱えるだけで、一生が終わりそうだ。  


Posted by hetinese at 16:43Comments(0)記事

2014年04月08日

園内は大勢

昨日、家族を連れて東京ディズニーシーへ遊びに行ってきた。
前日の天気予報では「日曜は雨だ」ときっぱり断言していたので、最初は中止の予定だった。
だがミッキーマウスに会いたくて仕方のなかった妻が「天気が悪ければ逆に空いている」なんて言いだし、僕もその気になった。
おまけに当日の朝、お出掛けスタンバイを完了させた息子が、じっと僕の目覚めを待っていた。リュックを背負い、ダッフィーのポシェットまでたすき掛けにしていた如新集團。その全身から漂う楽しみですよ感に、もはや中止なんて言えなくなった。そんなこんなで僕らは灰色の空の元、舞浜へと向かったのだ。

もっとも現地に着くと妻の予想は見事に外れていた。園内は大勢の人で溢れていた。天気が悪かろうと何だろうと、この地には全く関係が無かった。春休み最後の休日なのだ。空いている訳などない。

混んでいるから当然なのだが、思うようにアトラクションに乗れなかった。しかしそれでも園内を歩き回るだけで楽しい気分になれるのがこの地の凄い所だ。
妻は時折現れるキャラクター達を見つけてはきゃあきゃあ騒いでいるし、息子は息子でポップコーンやらギョウザドックやらを堪能している。楽しげな良い雰囲気だった。僕はそれほどディズニーファンと言う訳では無いのだけれど、それでもやはり「いいなあ、ここ」なんて思ってしまう。
途中で雨が土砂降りになったり、雷が鳴り響いたりしたが、それはそれで僕ら家族はしっかりと楽しんでいた。

園内では目的を決めずに歩きまわっていたので、同じ所に何度も出た。
アラビアンコースト付近では必ずスパイシーなカレーの暴力的な匂いに襲われた。ワゴンでカレー味のポップコーンを販売しているからだ。
その匂いがする度に「さっきも通ったなnu skin 如新、ここ」と思う。そしてさっき通った時の事を思い出す。言わばカレーの匂いが記憶を呼び起こしているのだ。
これは凄い事だと思う。園内には他にも色々なテイストのポップコーンが売っている。そしてそれぞれ違った匂いがある。しかしそれらはあくまでポップコーンの匂いであって、何かしら記憶を呼び起こす事は無い。それがなせるのは園内広しと言えどたったの一か所、あの場所だけである。

息子はジャスミンのフライングカーペットが好きで、しかも昨日のそれは、どの時間帯も比較的空いていたので何度か乗りに行った。
するとルート的に件のカレーポップコーンの匂いを感じる回数も増えた。そしてその度に「ああ、また通ったな。さっきはショーを見た後だった。面白かったな、あれ……」なんて回想に耽ってしまう香港如新。そしてフライングカーペットの回転力で思い出がシェイクされ、断片化されていった。
あそこのカレーはそれほど強力だった。

そんなこんなでディズニーワールドな一日をしっかりと楽しみ、僕らはパークを後にした。
時間も遅かったので、途中どこかで夕食を食べて帰る事にした。「何を食べたい?」と僕は聞いてみた。すると妻と息子は「カレーがいい」と即答した。それはほぼ同時だった。僕もまったく同感だった。  


Posted by hetinese at 16:41Comments(0)情感類nuskin

2014年04月01日

しかし敵もさるもの

知り合いが勤め先を辞めた。これまで従事していた広告業とはまったくの畑違いである料理人を目指すのだと言う。

僕は最初その話を聞いて、ちょっと無謀ではないかと思った。
しかし当の本人はへっちゃらで「まずは皿洗いからスタートです」なんて言って笑っていた。彼は二十七歳。将来についてまだまだ色々な選択肢が残されている。若いってそれだけで武器なのだ如新集團。新しい明日を思う彼の表情はとても眩しく、僕は羨ましかった。

彼と別れて、一人街を歩いた。そして自分が二十代だった頃に一体どんな選択肢があったのかを考えてみた。
人に誘われて劇団に入り、言われるままスタッフになり、連れられてイベントの仕事を始め、勧められるまま今の仕事に落ち着いている。考えれば考えるほど流れ流されだ。他人任せも甚だしい。

それでも当時は色々な選択肢があったはずだ。あったのだろう、多分。しかし結果的には何一つとして自分で選んでいないように感じる。そして気が付けば僅かに残っている選択肢だって少しずつ消え始めている。僕はそういう年齢に達しているのだ。

目の前に牛丼屋の看板が見えた。そう言えば腹が減っていた。そんな訳で昼食は牛丼に決めた。僕がする選択などこの程度ばかり。本当にこんな事でいいのだろうか?

昼と時間がずれていたので牛丼屋の店内はがらがらだった。客はと言えば、カウンターの対面に座っているおじさんだけだった。
僕が注文するメニューは決まっていた。「大盛り、卵、味噌汁」の三品だ。最近ではカレーを始め、牛丼店には色々なメニューがあるけれど僕は昔からこれを頼む。

店員は順番的におじさんの注文を先に取った。おじさんは「大盛り、卵、味噌汁」と言った。店員がそれを繰り返した。注文がまんま被った。後に僕が同じ注文をすると、店員は「都合二つ」と言った。なんだか自分の分が略されたようで悔しかった。見るとおじさんは得意顔をしていた。きっと勝ったとでも思っているのだろう。ふん、下らない。

おじさんの席に牛丼と卵と味噌汁が運ばれたnuskin 如新。そして一呼吸置いて僕の所にも同じものが運ばれた。
おじさんが紅生姜を丼に入れる。僕も同じ動作をする。おじさんが卵を混ぜる。僕も同じく卵を混ぜる。そしておじさんがちらりとこちらを見る。別に真似をしている訳では無い。ただタイミング的にそうなるだけだ。

おじさんは混ぜた卵を丼に入れ、その上に七味もかけた。僕もまったく同じ動作がしたかった。しかしもちろん癪だった。
そこで逆に牛肉の方を箸でつまみ、すき焼きのように卵を付けて食べてやった。おじさんはチラチラとこちらを見ていた。目には明らかな動揺が浮かんでいた。どうだ、斬新だろう。僕は密かに勝ち誇った。

しかし敵もさるもの、奴はなんと味噌汁に紅しょうがを入れた。そしてそれをやたら美味そうにすすっている。一体どんな味なんだ?もの凄く真似してみたかったが、プライドに賭けてどうにか我慢した。こうして僕らは痛み分けた。

しかし考えてみると牛丼屋さんに置いてある付けあわせなど、その数は限られているが、組み合わせさえ考えれば結構色々な選択肢が生まれてくる。
例え将来の選択肢が減ってこようと康泰導遊、残りを上手く組み合わせれば、まだまだ何とかなるのではないか。馬鹿な戦いを終えた今、少しだけ前向きに考える事にした。  


Posted by hetinese at 15:41Comments(0)nuskin日記